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世界最終舞踏 RSSフィード

2009-08-24(Mon)舞踏会二十九日目

[][]ペース配分わかりません!残響必徹ノベラゴン二日目 23:48

フリッカーズ・ステップ / ラボラトリカル・カウンターパンチ(10.8KB)

「最大公約数ってのは、要するにさ、妥協点なんだよ」

 研究室の西側の壁は一面に窓ガラスで覆われて、夕方になると

室内にいる人間の顔や背中やボトル缶の十六茶を容赦なく焼く。ブラインドを全て締め切っていても、油断すると折れ曲がったプラスチック板の隙間から鋭い光線が射して、咄嗟に顔を背けてもしばらく目蓋の裏に真っ白な残像が残る。直射日光を肉眼で見てはいけないというのは世間一般の常識だけど、お節介にも向こうからやって来る以上どうすることもできないのではないだろうか。わざとやっているとしか思えない、いやらしくおそろしくゆっくりと傾いていく夕陽がじりじりと全身を焼いていくときの苛立ちをエネルギーに出来たら、太陽光発電なんて比べ物にならないくらいの効率で電気が作り出せると思う。

「そう考えりゃ、数式も人間っぽく思えるだろ?」

 この研究室はよそに比べて幾分か広い。一人一つずつ机は与えられているけど、そもそも人数が少ないので大してスペースはとらない。他に置いてあるものと言えば、ホワイトボードと黒板(なぜ両方あるのかはわからない)、仮眠用のソファにゼミ用の大きなデスク、荷物の入ったロッカーとスチールラック、小さな冷蔵庫と電子レンジが置かれた台とシンプルなものだ。どれも壁際に収まっているから邪魔にならない。ただ最近、大きな机が二台も、あろうことか部屋の真ん中に設置されたことでこの空間の動線は完全に崩壊した。ほとんどの席は部屋の奥に配置されていたため誰もが机を迂回していく。夏休みが終わり、後輩達がこの研究室に配属されない限り、机は永遠に物置のままだ。そうだ、後輩が使うパソコン足りないよな。研究費余ってんのかな。

「ちょっと視点を変えれば、お前の数学嫌いだって……」

 さっきも述べた通りこの部屋は広い。そのせいか、出入り口が二つある。暑くてたまらないときは窓を全て開け、ドアを両方とも全開にする。こうすると見事に風が通り、快適に過ごせるというわけだ。その代わり研究室のプライバシーというものは灰燼に帰すため、廊下側に背を向けて座っているメンバーは職務怠慢大公開状態になるため大いに注意が必要だ。ていうか自分のことなんだけど。大体この研究室は六人しかいないのにパソコンだけ九台も稼動しているので夏はものすごく暑いのだ。そのうち一つは「廃熱のお化け」「計算する暖房」と呼ばれるマシンで、常時動いているわけではないのがまだ救いだ。もっとも、そのマシンは自分の向かいに置かれていることで救いはプラマイゼロどころか大幅にマイナスだけど。こんな環境に冷房が一切無いという事実がとどめを刺すと悲劇はあっさり喜劇に変わる。うるさいな泣き笑いだよバカ。

「聞いてんのかバカ」

 遠慮なく振り下ろされた教科書がクリーンヒット。本を粗末にする奴は本お化けに祟られると昔おばあちゃんが言っていた気がする。本お化けって字面だけ見ると「本物のお化け」のように思えるけど、実際お化けに本物も何もないはずだ。お化け屋敷にいるアレはお化けじゃなくて人間だし。待てよ?あれもコスプレって言えるのかも?だとしたら随分趣味が悪い事だ。「仕事はお化けのコスプレです!」なんて大声で言えたもんじゃない。しかもその格好で一日中人を驚かせているなんて。しかし頭痛いな。

「朝永朝永とーもーなーがーとーもなーがー」

 べしべしべしと奇妙なBGMでもって視界が揺れるので何かと思ったら断続的に頭をはたかれていた。新訂実践工業数学、第十五版。全184ページハードカバー、決して武器ではない。将来本お化けに祟られる事が確定したその男は、千歳直也。同じ学年同じクラス、けれど一歳年上。有史以来の秀才と言われ同時に史上空前の奇才と呼ばれるこの人物は、なぜか二回目の工業数学(必修科目)を履修している。

「痛いんだけど」

 どうして学校にいるのかわからないほど頭が良くて、一週間で自分の研究を完成させるほど腕が良くて、ついでに百人が見たら千人が美形と認めてそのうち七百人くらいは感動のあまり卒倒するような顔立ちなのに、千歳直也は自ら進んで留年した。「留年したかったから」と本人はその理由を説明する。進路だって引く手数多、どの企業も彼を欲しがったし、あちこちの大学から進学の誘いがあった。彼の能力をもってすれば、恵まれすぎるほどに恵まれた未来だった。しかし千歳直也は、自らの意志をもってそれら全てを拒否した。夏が来る前に卒論を仕上げ、彼はぷっつりと学校に来なくなったのだ。

「それが人に勉強教わる態度か?」

 今まで一度も、たったの一度も授業を休んだ事のない千歳直也が、学校に来なくなった。御丁寧にもその旨を書いた手紙を学校に送りつけたらしい。高そうな和紙に流れるような墨の字で書かれていて、国語担当の教官を呼んで解読させたという噂を聞いた。今までの彼の奇人ぶりを余す事なく見せ付けられて来た学友達もこれには驚いた。誰にも何も告げず姿を消したその理由はたちまち学校中の話のネタになる。怪我か病気か、もしやいじめか。彼の熱烈なファン(としか言いようのない女子学生)が、不登校の理由をめぐって一悶着起こした事は有名な話である。

「あんたの話訳わかんないから聞く気しない」

 その話を聞かせたとき、彼は腹を抱えて笑った。梅雨の最中のわずかな晴れ間を狙って訪ねた部屋は綺麗に整頓されて、壁の周期表の隣でアインシュタインがべえと舌を出していた。置いてあるものは机とベッドと本棚くらいで、全体的にモノトーンな色調の彼の部屋はどこかの研究所のようだった。入り切らない本が床にも机にも積みあがっている。自分は本のページで動脈を掻っ切って死ぬんだという冗談じゃない冗談は、この男の手にかかったら本当に冗談で終わらなくなるかもしれないのだった。

「どこまで頭悪いんだお前」

 何より奇妙なのは、その千歳直也と私、朝永由美が幼馴染みであるという事だ。

「あんたに比べたらこの学校の人みんな頭悪いよ」

「話をすりかえるな」

 机の上には開いたノート、そこに書かれた数式。イコールの先でシャープペンが寝そべっている。お茶もすっかり飲み干してしまって、買っておいたおやつも尽きた。あとはもう大人しく明日までのレポートを終わらせるしかない。どうしても苦手な数学にたまりかねて彼を探したはいいものの、何回電話しても携帯の電源を切っていて繋がらない。なんのための携帯電話かわからないじゃないか。それならばと人に訊ねても誰もはっきりした行方を知らない。

 色々と複雑な有名人だからどこにいても誰かが見ているはずなのに、なぜか「千歳直也を見た」以上の印象を人に与えないらしい。よくわからないけど、常に「いる」事だけしか認識できないという事かもしれない。「千歳直也」という存在だけが見えてしまって、「いる場所」まで考えが至らないのではないだろうか。……何を言っているのか自分でもよくわからなくなって来た。SF小説の読みすぎかもしれない。気を取り直して広い校内をあちこち駆け回り、最終的に屋上で昼寝していたところを見つけた。何しろ急ぎの用だったので、普段屋上の出入り口はきちんと鍵が掛けられている事まで頭が回らなかった。「屋上に千歳直也がいる」事さえわかれば充分だ。息を切らし足音を立てて歩み寄ると、すぐさま眼を開けてチェシャ猫のように笑みを浮かべる。何か確信を得たときの顔だ。こうやって助けを求めに来る事なんて当然予想済みだったんだろう。にやにやと楽しそうに笑いながら、起き上がった。

「そうそう頭悪いからさ、ほらこの問題、教えてよ」

 桃のヨーグルトドリンクを飲み干し、面倒そうに伸ばした手が教科書のページをめくる。ノートの更地の上を長い指が滑る。それを追うようにペンを取り、呪文のような文字の羅列を書き込んでいく。絡んだ糸を丁寧に解いて、揃えて縒って編んでいくような作業。記号が意味を成し数字が雄弁に語る。数学はパターンだと彼は言う。類型を見抜き手順を踏めば、自ずと答えは出て来る。「解ける」問題は、それで充分だ。

「解ける問題って?」

「ものすごい高性能なスパコンでも解けない問題ってのがあるんだ」

 学校ではそんなもの習わないから気にする必要はない。そう締め括る頃には、実にシンプルな格好の解答がたったひとつ、最後のイコールに現れた。小さな溜め息が漏れる。すかさず、短く切り揃えた爪がプリントを叩く。指し示すのは次の問題。書き写す間にも声は降って来る。これは三番の問題と同じ、この公式を使う、ポイントは途中でわざと括弧を外す事。消し屑を払って、リズム良くシャープペンをノックする。魚のように軽やかにペンが走り出す。さらさらと芯が紙を擦る音も心地好い。答えなんて最初からわかっていたみたいに、驚く程簡単に、問題は解けてしまった。

「できんじゃん、お前」

 ほら次と促す声で、残った問題の少なさに驚いた。

 一つは見掛け倒し、二つは子供騙し、最後の問題は思ったより素直だった。

「ありがとー助かった」

 お礼はきちんと言ったつもりだけど、千歳直也はやれやれとわざとらしく溜め息をついて見せる。

「バカ過ぎて困っちゃうよ、お前」

 実際どうしようもないくらい勉強の出来る相手に言われると反論する気にもなれない。溜め息混じりにすいませんねと拗ねたら、意外な事が起きた。

「……何してんの?」

「見てわかんない?」

「そうじゃなくてさ」

 全くこの男は頭の撫で方というのを知らない。折角梳かした髪もめちゃくちゃだ。なるべく恨みがましくなるように睨むとまたさっきのチェシャ猫スマイルを浮かべていた。完全にバカにされている。さすがにちょっと頭に来たので、そっぽを向いてやった。

「違う違う、いいから聴けって」

「何が違うのさ」

 返事がない。渋々振り返ると呆れたようなほっとしたような妙に面倒くさい表情を浮かべた千歳直也は再び手を伸ばして顔にかかった髪を払ってくれた。ついでにまた撫でられる。今度はまあ、まともな手付きだった。

「さっき探してただろ?」

 主語のない会話。ああ、とかうん、とか曖昧な返事で先を促した。

「そういうことできんの、お前だけなんだよ。今日わかった」

「……なにそれ」

「お前にはわかると思ったけどな。頭いいし」

「いいんだか悪いんだかどっちなの?」

 けらけらけら、と笑うだけで千歳直也は答えない。もう一度くしゃりと髪を撫でた。

「だからね、お前以外の奴は俺が「いる」ことしかわかんないの。俺が「どこにいる」かはどうしたってわかんないの」

 なんで、どうして。そんなことを考える隙間もない程そのままに、彼は私が考えていた事を口にした。

「昔っからそうじゃないかとは思ってた。確信はなかったけどな」

 半分ほど中身の残ったペットボトルを取り上げる。無遠慮な炭酸に少し顔をしかめながら、一口また一口。迷っているような素振りはなかった。

「けど今日は偶然。お前が明日までのレポート抱えてんのも、数学苦手って事も、真っ先に俺を探しに来るって事も、みんな知ってたしわかってた」

「だから、あんなところにいたの?」

「もしお前が俺を見つけられたら、それが証明になると思って」

 奇人の影はそこにない。穏やかな口調と伏せた眼、横顔を照らす西陽。それはとても美しい光景だけど、同時に哀しくて、何より腹立たしかった。腹立たしくて、声を振り絞った。

「なに、それ」

 向けられた瞳は、勝手に作った孤独と諦観で曇りに曇っていた。顔が熱くなる。鼻の奥がつんと痛む。声が、震えそうになる。

「私がそんなに信じられなかった?あんたいつだってすぐいなくなっちゃって、その度に私が探す事になって、だけど私、いつだってあんたを……直也を見つけたよ」

 誓って言える。これだけは、命を賭けてでも言える。

「どんなに時間かかっても外真っ暗になっても、どんなときだって必ず直也を見つけたよ」

 誰にでも見えるのに誰にも掴めない、観測と捕捉の狭間で踊るゆらぎのような。

 幻とさえ呼べる頼りなさでも。

「私は……私だけは、絶対、直也を見失ったりしない」

 沈黙。秒針の音。顔が上げられない。涙を堪えるので、精一杯。きっと顔は真っ赤だ。心臓がばくばくと鳴っている。喉はからからで、まともに喋れない。どうしていいか懸命に考えているとやがて聴こえる、小さな笑い声。耐えられないというように体を震わせて、くつくつと喉の奥で笑う。呆然と見ていると、笑いはついに爆発した。天を仰いで、大声を張り上げて直也は笑う。咳までしながら、それでも笑う。口を開けて、顔をくしゃくしゃにして。あまりの笑いっぷりに、収めた怒りが再びふつふつと沸いてくる。今度こそ一発お見舞いしてやろうと固く拳を握ったとき、直也がぜいぜいと息を切らしてこちらへ向き直った。

「……朝永ぁ」

「なに」

「朝永」

「なにってば」

「朝永」

「だからなにって」

「朝永」

「だからなんなん……!」

「由美」

 いつからか、お互い名前で呼ばなくなって、その響きも忘れてしまっていた。それが今、一瞬で色を取り戻す。懐かしい声。懐かしい響き。

「なに、直也」

「俺さ。お前の事、大好きだ」

 頬を伝って落ちていく涙を、手を伸ばして拭う。バカはどっちなんだか。ほんとに、バカなんだから。

「……知ってるよ」

「お前は?」

 言わなきゃわからないの?それとも、そんなに言わせたい?

「さあね」

 にんまりと笑った顔をもうまっすぐ見られない。だから、腕の中に飛び込んだ。

「大好き!」